■六文銭のいわれ その1
真田家が六文銭を旗印として用いたのは武田家滅亡後の北条氏との一戦で勝利してからだとする伝承があります。
居城である上田城に逃げ込もうとした真田勢を北条の大軍が追いかけてきました。そのときに、上杉家から帰された弁丸こと真田幸村が一計をたてました。白無地の旗に永楽通宝を書き込ませ、それを布下や穴山らの部将に持たせ北条軍に夜討ちさせました。北条軍の重臣のひとりである松田尾張守の紋所が永楽通宝であったため北条軍では謀反が起こったかと驚き、その混乱した隙に上田城に戻ることができました。真田昌幸はこれにより幸村に六文銭を家紋にせよと言ったらしい。
しかし、上田城は武田家滅亡直後ではまだ出来ていないことを考えるとあやしい伝承であります。
■六文銭のいわれ その2
次は九度山真田庵にある言い伝え。六文銭旗の由来としています。
「天正十年三国峠で上杉の大軍を戦わずして説伏せた真田父子は三百余人の軍勢を引いて三国峠を過ぎた箕(笠?)城(箕輪城か)で北条氏政の大軍四万五千と対決。その時幸村は十四才。父昌幸に『家名をあげるのはこの時です。どうして恐れることがありましょうか』と言って無紋の旗を取出し北条方の重臣松田尾張守の旗の紋、永楽通宝の紋を描き、旗六本を造り味方を六隊に分け敵陣に夜討ちをかけました。北条方は松田が謀反を起こした言って大騒動でした。昌幸は幸村にその功を誉め『お前は今から定紋を六文銭にすることを許す』と言いました。これが真田の六文銭旗の由来です。」とあります。
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■六文銭のいわれ その3
六連銭は仏教でいうところの六道銭のことで、三途の川の渡し賃であります。決死の覚悟であるという意気込みが伝わるところからこの家紋にしました、という説があります。
六文銭は真田家の家紋として有名であります。六連銭紋。真田家は六文銭を用いる前は雁金(かりがね)の紋でした。ちなみに、この家紋は真田家だけの家紋ではなく、海野氏や深井氏もこの家紋であります。