真田幸村(さなだゆきむら)-真田信繁(信仍(のぶなお)) 1567(1570)-1615

真田幸村像 長野県上田市の上田駅前の真田幸村像→
(画像提供:やーたろー殿


 真田幸村・・・幸村は、永禄10年(1567)、真田昌幸(武藤喜兵衛)の次男として生まれる。『仙台真田系譜』では元亀元年(1570)2月2日生まれとする。本名「源次郎信繁」、幼名「(御)弁丸」。なお、本人が自称したのかどうかわからないが後世には「真田幸村」と伝わる。水戸光圀の言行を書き記した『西山遺事』には「真田左衛門佐信仍」とし「幸村と云うはあやまりなり」とある。また『常山紀談』には「秀頼、信仍招かりけり」とある。さらに『武林雑話』には「・・・信賀父子も一両年中に討死とこそ・・・」とある。ただ「信」の次の字が読みづらく信賀は信仍とすることもある。生まれたときの名は武藤弁丸。

真田庵 ←紀州九度山真田庵

 兄の真田信幸(信之)が源三郎なので、産まれた順に名前をつけるなら兄と弟が逆であるが、本当は先に幸村が産まれ、次に信幸が産まれたのか?それとも幸村の母親は武田家の養女(菊亭晴季の養女など諸説あり)の山之手殿(寒松院・京の御前)ではなく、身分の低い女性だったため順番を入れ替えたのか。また真田家では一番最初に産まれた子供が早死にすることが続いたため、信幸を「源三郎」にしたのか、真相は不明。ただ、父昌幸(三男)は源五郎、昌幸の弟の信尹(四男)は源次郎なので、数字の順逆は産まれた順とはあまり関係の無いことなのだろう。さらに、幸村の本名「信繁」には父や祖父の名前に使われている「幸」の字が無いことから、やはり信幸が長男なのだろう。また、武田信玄のすぐ下の弟の武田信繁にあやかって付けたとも言われている。


 天正2年(1574)、真田幸村8歳の時に真田家中興の祖である祖父の真田弾正忠幸綱(幸隆)が亡くなる。ついで翌年の天正3年(1575)には、真田家を継いでいた真田昌幸の長兄であり幸村の叔父である真田信綱が次兄真田昌輝とともに長篠の合戦で戦死。その為に真田家を継ぐこととなったのは幸綱の三男昌幸であった。つまり名字が武藤から真田に変わった。幸村9歳のことである。少なくともこの頃まではおもに甲斐の武田家で育ったことだろう。
 天正10年(1582)3月にはその主家である武田家が滅ぶ(エピソード1)。父の昌幸は北条家にも織田家にも臣従の意を示すが同年6月の本能寺の変で織田信長が亡くなると北条氏直に属し、ついで徳川家康に属す。天正11年(1583)には昌幸は上田城を築きはじめる。北条家と同盟を結んだ徳川家康は領土問題で不満を示した真田家と合戦するにいたった。


 その天正13年(1585)閏8月2日の徳川軍と戦った「神川合戦」は、真田昌幸の采配で勝利をおさめるも、真田幸村がこの戦に参加したかは不明。兄真田信幸は参加している。徳川との合戦がさけられず上杉家の後ろ盾が必要となり、幸村は19歳のとき上杉景勝の人質(矢沢三十郎頼幸らとともに天正13年8月下旬から翌年5月まで)になっている。「信繁年若に付、矢沢三十郎軍代とし、海野・望月・丸子等、合備と成て、上田勢百キづつ、春日山へ勤仕」(『真武内伝』)とある。おそらく合戦には参加していないだろう。上杉氏の海津城もしくは春日山城にいたと思われる。
 この人質時代に上杉景勝から屋代秀正の遺領のうち千貫文を与えられている。弁丸の名前が書かれたこの頃の文書があるので、まだ元服をしていないのかもしれない。19歳で元服がまだというのも遅い気がするが、案外1570年生まれのほうが正しいのかもしれない。それなら数えで16歳である。ちなみにその文書では、弁(弁丸)が屋代秀正の旧臣諏訪久三に秀正時代の領土をそのまま安堵し、さらに十貫文加増するとある(諏訪久三宛真田幸村知行宛外状『諏訪氏文書』)。


 天正14年(1586)5月に上杉景勝が上洛しその留守中に、真田昌幸は真田幸村を上田に呼び戻し豊臣秀吉のもとに人質として送り出す。景勝は大いに怒ったとされる。「大きに怒りて、かの源次郎幸村をきっと返し給はらん」と『藩翰譜』にある(エピソード2)。ただし、景勝の留守をまもる上杉家の家臣達が勝手に幸村を昌幸のもとへ帰したとは考えにくいので、景勝にことわって許しを得ていたとか、もしくは、景勝自身が幸村を秀吉のもとへ連れて行ったのが真相かもしれない。
 幸村にとって人質という立場は変わらないが天下人秀吉のもとでの生活が始まった。当時の文化の最先端である上方での生活は幸村の生き方や考え方が大いに刺激されたことであろう。人質というよりは秀吉のそばに仕えるといったほうが的確な表現かもしれない。後に豊臣の姓を与えられたことを思うと、秀吉のお気に入りの一人だったのではないだろうか。


 天正17年(1589)、北条氏は突然真田領の名胡桃城を攻めた。これを理由に豊臣秀吉は小田原攻めを実行に移した。翌天正18年(1590)2月、真田幸村は真田昌幸とともに前田利家に属しながら秀吉の北条征伐に参加したとされる。4月の昌幸に従っての上野国の松井田城攻めが初陣?その前の碓氷峠での戦いが先か。「源次郎信繁、自身に働き、手を砕きて高名あり」(『滋野世記』)とある。ついで箕輪城も落とす。7月7日小田原開城。秀吉の奥州攻めにも父子とも参加。


 天正19年(1591)頃??真田幸村は越前敦賀城主大谷刑部少輔吉継(吉隆)の娘(養女説有)と結婚。この義父からは大いに薫陶を受けたであろう。文禄3年(1594)11月2日、従五位下左衛門佐の官職を受け、豊臣の姓をも許される。左衛門佐豊臣信繁。兄真田信幸も同日伊豆守に任官する(『柳原家記録口宣案』)。この頃??に結婚か。
 文禄・慶長の役は朝鮮には渡らず、肥前名護屋に在陣か(真田昌幸信幸は在陣)。おそらく、秀吉のそばにいたのではないかと思うので大坂や伏見と名護屋を往復したことであろう。



大阪城 ←大阪城(大阪市中央区大阪城)

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 慶長3年(1598)8月18日に伏見城で豊臣秀吉が亡くなるやいなや徳川家康が動き出した。翌慶長4年(1599)正月、家康は伏見城の自邸にいて政務をとった。この頃、真田昌幸・幸村はおなじく伏見城で家康に仕えていたようだ。伏見には幸村の屋敷もあったようだ(昌幸の手紙)。同年10月1日に家康が大坂城二の丸へ移ったが、昌幸・幸村はしばらく伏見に残り翌慶長5年(1600)4月頃までに大坂へ移ったもよう。伏見桃山城

伏見桃山城(京都市伏見区)→

 慶長5年(1600)6月16日、上杉攻めに家康は向かった。この徳川軍に従軍中の7月21日上野の犬伏で石田三成の密書(勧誘状)を受け、昌幸信幸・幸村の親子三人にて東軍・西軍のいずれにつくか話し合う。「今度の意趣、かねて御知らせも申さざる儀、御腹立ち余儀なく候」(『七月三十日付昌幸宛三成書状』)にあるように事前に三成からの連絡が無かったことを昌幸は不服としたが、昌幸・幸村は石田方の西軍につくことになる。信幸はそのまま東軍につく(犬伏の別れ)(エピソード3)。幸村の義父大谷刑部が三成方に付いたこと、信幸の妻が家康家臣本多忠勝の娘であることも、この別れの原因の一つであろう。昌幸・幸村は兄信幸の沼田城を経て上田城へ帰った。沼田城には信幸の妻小松殿が拒否した為、城には入れなかったが(エピソード4)
 同年9月の関ヶ原の戦いに徳川秀忠軍約3万7千が遅参したのも、父昌幸の力によっている。この9月6日の「第二次上田城の戦い」(対徳川)でも少数の兵力で多数の徳川軍を翻弄した昌幸の用兵力は、幸村にも多大の影響を与えたことであろう。数日前に秀忠軍に降参するふりをして時間を稼ぎ、開戦するや軽兵で秀忠軍を誘い込み神川を渡ったときに上流にいた幸村?が堰をきって流し込み、敵が乱れたところを主力の軍が突撃し秀忠軍をこらしめた(もう一説)。とにかく、関ヶ原戦後秀忠はこの上田城攻めの失敗、家康の軍との合流の遅参を家康にこっぴどく叱られる。関ヶ原の戦いがあった日は秀忠はまだ木曽福島の妻籠宿だったという。
 その後、家康軍との戦闘は無かったが昌幸は開城した。大激怒の秀忠は真田父子の処刑を訴えるも、信之(この頃から信幸→信之に改めた)と信之の義父本多忠勝の嘆願で紀州九度山村への蟄居という形になった。幸村34歳(31歳)。同年12月12日高野山に昌幸とともに向かった。従者16名。昌幸の上田領は信之が貰い受けた。その後、幸村は入道し「伝心月叟」と号す。

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 慶長5年12月からの九度山村での蟄居生活でも、生業を助ける意味もあったであろうが配下を使い「真田紐」を売りさばきながら(真相は不明)、情報収集をしていたことであろう。もともと忍(山伏や歩き巫女)を用いていた真田家である、九度山にいながらにして世情に通じていたのではないだろうか。
 真田幸村は父昌幸とともにここで来るべき時を待っていたのかどうかわからないが、昌幸は免赦されることを望んでいたようである(「・・・本佐州定めて披露に及ばるべく候か・・・」)。本佐州は家康の家臣本多佐渡守正信のことである。この期間の昌幸の手紙には、老齢のため気力が萎えてきたとかお金を都合してもらいたいとか、幸村の手紙にも、父は山暮らしが不自由であるとか自分も気力が衰えてきたとかの文章が見られる(「永々の御山居、万御不自由、御推量成らるべく候。我等手前などの儀は、猶もって大くたびれ者に罷り成り申し候」)。また木村土佐守綱茂には、あなたの好きな連歌をわたしもここでしていますが老いの学問でうまくいきません、とか、真田藩士河原左京には焼酎を所望している。もっとも、手紙が江戸の目に触れることを見越して弱々しい気持ちを書き記していたとしたら話は別だが。これらの手紙では、「真左衛入」「真好白」「真好白信繁」「さえもんのすけ」「真左衛門佐」とある。入道して好白と名乗っていたことがわかる。昌幸の晩年の信之にあてた手紙には、病気が治ったら一度会いたいという旨が記されている。
 比較的自由に行動が出来るような蟄居状態のようだったが、やはり大名の殿様、そしてその息子である。生活費は結構いったものと思われる。幸村も妾を持っていたようだ。借金があった記述も残っている。慶長16年(1611)6月4日昌幸他界す。慶長17年(1612)、幸村は「好白」と号す。慶長18年(1613)6月3日、山之手殿死去。この蟄居期間中に父と母、娘(於市?)を失った。九度山真田庵

九度山真田庵(和歌山県)→


 慶長19年(1614)10月1日徳川家康は大坂追討を命じた。徳川方との戦が避けられない状態になった豊臣方は、大野治長?の使者が真田幸村をむかえに行く。「秀頼公より大野修理亮治長承りにて、御頼み有り」(『武林雑話』)とある。当座の音物として黄金二百枚、銀三十貫をもらう(『駿府記』)。これで借金は利子をつけて返せたことだろう。そして九度山村の脱出の時も付近の村民にできるだけ被害が及ばないように気遣いながら脱出したと思われる。父昌幸の死後、まわりの家臣達も信之のもとへ行き人数も減っていた。残っていたのは高梨内記、青柳清庵、三井豊前の3人か?脱出時のエピソードもいくつかあるが深夜にこっそりと抜け出たと思われる。また、村人を集めて酔わしてその隙に脱出したとかの話もある。おそらく村人の協力もあったであろう。雑賀一揆に見られたとおり紀州人には権力者に対する反骨精神がつよいのか幸村達には好意的だったのではないだろうか。近辺猟師が数十人幸村に付きしたっがている(『鉄炮茶話』)。慶長19年(1614)10月9日に大坂入城。その時の幸村のお供は数十人(もしくは100〜300人)になっていたようだ(エピソード5)


 徳川軍を二度も破ったのは真田昌幸の采配、その倅である無名の幸村は敵にも味方にも父のようなたいした人物とは思われていなかったようだ。「真田大坂入城」の報を聞いた家康が体を震わせ、真田の倅(せがれ)が入城したわかるとやっと落ち着きを取りもどしたとされるエピソードは後年の作であろうが(エピソード6)、当時は真田の武名は幸隆昌幸がうちたてたものだから、幸村の能力は未知数の存在だったと思われる。したがって幸村の作戦はなかなか豊臣方首脳陣に用いられなかった。もし、幸村の作戦通りに宇治あたりへ集結したばかりの徳川軍を奇襲し瀬田あたりで防衛線を引いていたら、どうなっていただろうか?もっとも、幸村の作戦も昌幸がきっと九度山で幸村に語って聞かせたものを幸村なりに工夫したものであろうが。「これらの謀り事もワシだからできることであって、倅のお前には無理である」と昌幸が幸村に語り、それに反発した幸村に「これらの謀り事を実行する采配能力はお前にはある。が、それを指揮するのは実績のあるワシだから兵たちも信じて戦うが無名のお前では誰も信用せずにこの謀り事は失敗に終わるだろう」のようなことを言って聞かせたらしい。しかし、実際に10月中頃までには徳川軍は伏見、木津、大津あたりにぞくぞくと集結していたため、大坂方のこの作戦もどこまで通用するものであっただろうか?
 それでも大坂入城浪人五人衆に数えられた。長宗我部宮内少輔盛親、毛利豊前守勝永、明石掃部全登、後藤又兵衛基次と幸村こと真田左衛門佐信繁の5人である。


 そして、真田幸村に配属させられた浪人衆の寄せ集めの軍隊は次第に幸村に信服していく。もっとも、昌幸の元配下が幸村を慕って兄信之の真田領から数百人集まってきてはいるが、あっという間に手なずけるところに幸村の才能、人柄、人望、カリスマ性があるのではないだろうか。父昌幸から戦いは指揮するものの魅力がいかに大事かをきっと教えられていたことやそれを素直に実行していたところは流石である。やはり、大将たる器の持ち主なのである。

真田幸村像 ←宰相山公園(大阪市天王寺区玉造本町)


 真田幸村や後藤又兵衛等の作戦は用いられずにいるも、大坂城の唯一の弱点(陸続きということで)である南側(玉造口)に真田丸なるものを築くことができた。12月4日、ここで采配を振るった幸村は、引き付けてから鉄砲を撃ちかける攻撃などで、さんざんに前田利常勢など徳川軍を打ちのめした(真田丸攻防戦) (エピソード7)
 しかし、大筒で直接大坂城を狙い、淀殿をはじめ大坂城の女性達を震え上がらせてから和睦を持ちかけ、これを12月22日に成立させるとあっという間に総掘りを埋めてしまった徳川軍、不平不満の大坂方が和睦の条件を破るのも時間の問題で(エピソード8)、起こるべくして起こった大坂夏の陣は幸村の最期の意地を示す場となった。


 慶長20年(1615)の大坂の夏の陣は、大坂方が壊れた塀を修繕したり埋め立てた堀を掘り返すなどの不穏な動きありとの報告を京都所司代の板倉勝重が3月15日家康に報告し、豊臣秀頼の国替えか浪人の放逐をもとめるが4月5日大野治長の使者が国替え拒否を報じた。徳川家康は諸大名に動員命令を下し京周辺に集結させた。5月5日には大坂へ進軍。裸同然の大坂城では篭城もできず家康の得意な野戦をしなければならなかった。


 5月6日の決戦の日、先発の後藤基次隊2800は、不運にも濃霧のため後続の真田幸村隊などが続いていないにもかかわらず、集結地点の道明寺付近をも通過した。

道明寺天満宮 ←道明寺天満宮

 奈良方面、河内方面からやってくる徳川軍を迎え撃つには国分が最適かつ最重要地点なので単独部隊だけでもいち早く押さえたかったのだろう。しかし、後藤隊が国分に到着する前に徳川軍水野勝成隊等が集結しつつあった。そして後藤又兵衛は河内の国分小松山で奮闘むなしく戦死。まるで死に場所を求めていたかのような行軍だったと思われてもしかたがないか。あとに続いた薄田隼人正兼相も正面攻撃で崩れ、兼相自身も数十人を血祭りに上げるも戦死。

誉田八幡宮誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)→

 大きく南へ迂回してしまい遅れてきた幸村隊等は南河内の誉田あたりで徳川方の伊達政宗隊とぶつかる。伊達家自慢の騎馬鉄砲隊も功をなさなかった。どうやら、片倉小十郎重綱隊の発砲は幸村隊に打撃を与えず、逆にその硝煙で視界がさえぎられそれでも突撃を命じた重綱に十分に引き付けた幸村隊が鉄砲を浴びせかけ別働隊が突撃しみごとに追い散らした。真田軍お得意の攻撃である。幸村は追撃をおさえ反撃しみごとに撤退することができた。このときに幸村は「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候」(『北川覚書』)と言い残し真田強しの印象をさらに強くした(エピソード9)。しかし、八尾・若江の戦いでは、後詰なく木村長門守重成戦死。冬の陣で活躍した後藤・木村は、はやくもいなくなる。しかし、井伊、藤堂勢は翌日は先鋒からはずさなければならないほどの大打撃を受けた。木村重成、長宗我部盛親隊の奮闘の結果である。ほんと後詰さえあれば・・・。

志紀長吉神社 ←大坂城へ戻る途中で戦勝祈願をしたとされる志紀長吉神社(大阪市平野区長吉長原)


 翌7日の大坂城の南側の天王寺口での戦いでは、真田幸村、毛利勝永等が徳川軍の先鋒にあたり敵をひきつけ、遊軍の明石全登隊が迂回して家康本隊を攻撃する作戦をたてるが、徳川軍の攻撃に毛利隊がたまらず反撃を開始したため開戦、死に物狂いの大坂方と徳川軍との乱戦がはじまる。ここでも幸村の作戦通りにはいかなかった。「重ねて申し遣わす。敵が押し寄せても、茶臼山、岡山より前へ我が軍を出したならば、必ず不覚を取るから、このことを侍どもへもよくよく申し付け、もしこの命令に背く者があったら死罪に申し付けよ」と大野治房の書状にもあったのだが・・・。この時幸村は息子大助を城中に帰している。これは人質の意味、総大将豊臣秀頼に出馬をさせる意味、もし敵に秀頼が殺されるような場合には大助が秀頼に辱(はずかし)めを受けないようにするためとか、落城の際には大坂城を脱出させるためとかいろいろある。

茶臼山茶臼山(大阪市天王寺区)→

 緋縅の鎧、鹿の角の前立に白熊付きの冑をかぶり、日頃より秘蔵の河原毛の馬に、六連銭の家紋を打った金覆輪の鞍を置き、紅の厚総をかけた出立で茶臼山に陣を構えた。真田隊の主だった人々は、真田与左衛門・江原右近・大谷大学(大谷刑部の子息)・御宿政友・細川興秋(細川忠興の次男)・福富平蔵・渡辺内蔵助。赤備えの幸村隊(戦場では赤色は目立つ色である。それを敢えて全身を真っ赤な鎧、兜、旗などを用いた。これは、いかに我が部隊は勇猛果敢で強いかをあらわしている。武田家の山県昌景、徳川家の井伊直政が有名)と決死の毛利勝永隊の攻撃はすばらしかった。3000人の幸村隊は越前勢の右翼を突き崩し、これを突破し、さらに駿河衆を蹴散らし家康本陣へ迫った。赤い塊が家康を襲ったのである。幸村は部隊を3段に分け数度の突撃を家康本隊にぶつけた。金扇や大馬印をうちすて家康本陣はくずれ(三方が原の敗戦以来『三河物語』)、側近たちも半里も一里も逃げるありさまで、家康はなんども切腹を叫んだという。「幸村十文字の槍を以って大御所を目掛け戦はんと心懸けたり。大御所とても叶はずと思し召し植松の方へ引き給う」(『本多家記録』)ともある。さらに、「家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延びその到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす」と『朝野旧聞哀稿』にある。しかし、奮闘虚しく幸村は茶臼山方面へ撤退する。疲れ果てた幸村と数人の側近達は安居神社近くの畦で動けなくなっているところを「手柄にすべし」と言ったかどうか、越前松平家の鉄砲頭西尾仁左衛門久作に首をかかれた。「眞田左衛門佐、合戦場於いて討死。古今にこれなき大手柄、首は越前宰相殿鉄砲頭取り申し候。さりながら手負ひ候ひて、草臥れ(くたびれ)伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候」と細川家の記録にある。さらに「七日の合戦に、この方歴々の人数持(部将)、逃げざるは稀に候。笑止なる取り沙汰にて候。人により、平野・久宝寺・飯守まで逃げたる者もこれある由に候」とある。数が多い徳川軍、休まず戦ってきた大坂方の兵士たちの疲労、幸村の戦死と時間がたつとともに体勢を立て直した徳川軍が有利になり、大坂城は落城する。幸村49歳で没。長国寺過去帳などには46歳没とある。

安居神社←安居神社(大阪市天王寺区逢阪)

 戦後、幸村の勇戦は古今無類の者と評される。薩摩の島津家の記録にも「五月七日に御所様の御陣へ真田左衛門は仕かかり候て、御陣衆追い散らし、討ち取り申し候。御陣衆、三里程づつ逃げ候は、皆いきのこられ候。三度めに真田も打ち死にして候。真田日本一の兵、古よりの物語にも、これなき由、惣別これのみ申すことに候」とある(『後編薩藩旧記雑録』)。細川忠興は「古今これなき大手柄」と『細川家記』に記録した(エピソード10)

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 また、真田幸村が薩摩へ豊臣秀頼を奉じて落ち延びたという噂が広まったようだ。その頃に流行った童歌に「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田がつれて、退きものいたよ鹿児(加護)島へ」とある。薩摩では真栄田(真江田)と名乗りなんとお墓まであるそうだ。また、芦塚大左衛門と名乗ったという資料もあるようだ。九州平戸の商館長も落ち延びの話を本部へ報告している。英雄には生き残り伝説が付きものであるが幸村もまたしかりであった。尚、幸村の逃亡先は他に秋田、讃岐、紀伊などがある。秋田説では飯田と名乗ったそうだ。讃岐では新たに子をもうけ「之親」と名付けた話が残っている。




 影武者といえば、武田信玄が有名だが、真田幸村もどうやら複数の影武者を用いていたようである。『元和先鋒録』には「真田左衛門合戦の様子奇怪の節多し、この日、初めは茶臼山え出、それより平野口において伏兵を引廻し、また岡山に出て戦ふ、後に天王寺表において討死す」とあり、幸村があちこちに現れたことを記している。西尾仁左衛門に討たれたのは望月宇右衛門(望月六郎兵衛村雄?)で幸村の首だと信じ切っていた松平忠直に遠慮して将軍秀忠も本物ということにした(『真武内伝追加』)。また、『慶長見聞書』でも首実検に立ち会った叔父の真田信尹も西尾がもちかえった首を幸村だとは断定できなかったようだ。またこれとは別に、幸村だと思って討ち取った首を吟味したら穴山小助だとわかったので刑場に捨て、後に土地の者が丁重に葬ったと伝えられる(『真武内伝追加』)。『真田三代記』には七人の名前を載せている。三浦新兵衛国英、山田舎人友宗、木村助五郎公守、伊藤団右衛門継基、林源次郎寛高、斑鳩(鵤)幸右衛門祐貞、望月六郎兵衛村雄であるが、夏の陣で活躍した大坂方の武将たちの名前にちなんでいるようで創作っぽい。「影武者を銭の数ほど出して見せ」という狂歌まである。


 兄の真田信之は、この弟幸村(信繁)のことを「ものごと柔和、忍辱にして強からず、ことば少なにして、怒り腹立つことなかりし」(『先公実録』)と語ったという。忍辱とは仏教用語で、はずかしめを受けても耐え忍び、恨まぬことを意味する。また、『翁草』には「性質屈僻ならず、つねに人に交わるに笑顔多く和せり」とある。後藤又兵衛基次の部下、長沢九郎兵衛は「真田左衛門は四十四、五にも見え申し候。ひたひ口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」と書き記す(『長沢聞書』)。大坂城に入城する少し前の幸村がだした手紙には「去年から俄にとしがより、ことのほか病身になりました。歯なども抜けました。ひげなども、黒いものはあまりありません」とある。
 江戸期から人気があり講談や芝居などで有名になった「真田幸村」は、かなりイメージが先行し諸葛亮孔明のような軍師・策士のようだが、悲劇の人物がヒーローになるのは日本の文化なのだろうか。源義経や楠木正成もそうであるが、日本人の心にうったえるものがある。ある意味無念の人である彼を弔う意味もあるだろう。人生の大半を人質と囚人という立場の生活ですごした虚しさと、衰退した豊臣家の虚しさとが重なり合い、死に花を咲かせるために、あるいは死に場所をもとめて幸村は大坂城に向かい、自分の生きたいようにできる最後のチャンスだと考えたのではないだろうか。豊臣家に味方する大名もいないのに、勝てる見込みなどないのはわかっていたはずだ。幸村以上に豊臣恩顧の大名はたくさんあったのに、幸村は入城したのである。幸村の己の生き様をしめした生き方に漢(おとこ)の魅力を感じるのである。真田丸での勝利、夏の陣での家康本陣への突撃などには猛将・智将の印象もあるが、それ以上に人としての魅力を感じるのである。家康を討ち取ることも豊臣に忠誠を誓うことも真田の家名を上げることも二の次で幸村は彼なりの生き方(家臣等を護る等)を全うしたかったことであろう。



 真田幸村の姉の村松殿の夫、小山田壱岐守茂誠への手紙に「信繁」の名前がでる。それで本名は「信繁」であるとされている。他の手紙には「信仍(賀)」という名前もみられる。『西山遺事』には真田左衛門佐信仍とある。「幸村」の名前は講談師「幸村(こうむら)さん」の作で、幸村が大活躍する物語のおもしろさが世間に受け、架空の名前の「真田幸村」は、いつしか本当の名前??になったのでは???、とも考えられる。しかし、この説は次に紹介する『難波戦記』が出来る以前でないと説得力がない。
 寛文12年(1672)に万年頼方と二階堂行憲によって書かれた『難波戦記』には「幸村」の名前が出ているが、彼ら作者二人か後世の誰かが真田家に続く「幸」の字、それと幸村の姉の「村松殿」の「村」を合わせて創作したのだろうか。もしくは徳川家にとっては魔物の刀「村正」の「村」か。大坂入城の時に名前を幸村に変えたということも言われるが、大坂夏の陣直前の3月19日に書かれた小山田茂誠とその子之知への手紙の一節に「さだめなき浮世に候へ者、一日さきは不知事、我々事などは浮世にあるものとはおぼしめし候まじく候」(さだめない浮世ですから、一日先のことはわかりません。私などは、浮世に生きている者とはおぼしめし下さいますな)とあり(『小山田文書』)、私はこの世にはいないと思っていてくださいね、と親族に伝えている。縁を切ったとまではいかないが、そのような決意からもこの手紙を出した後、信繁の名前を別の名前に変えていたのかもしれない。もしそうなら、その名前が「真田幸村」で、それが死ぬまでの約2ヶ月という短い期間にしか用いられなかったこと、改名の事実は大坂方のごくわずかの者や身近にいた者(配下の兵士等)しか知らなかったことが原因で自筆の手紙や公家の日記、東軍が書き残した戦記などに幸村の名前が出てこないのかもしれない。一般に文献に出ていないから幸村という名前は創作だとされている。しかし、それが大坂方生き残りの兵士達が改名の事実を憶えていて、後世に伝わっていたのかもしれない。大坂の陣も穏やかに話せるようになった後の時代にはじめて『難波戦記』というかたちで現れたのかもしれない。享保16年(1731)にできた『真武内伝』には途中まで左衛門佐と書き大坂城に入城後は左衛門佐幸村というように書かれてある。真相は不明である。
 
法名:大光院殿日道光白居士 追号:大光院殿月山伝心大居士
墓所:竜安寺大珠院(京都市右京区)、高野山蓮華定院(和歌山県伊都郡)
 

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