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幸村のこぼれ話

 真田一族の数あるエピソードのうちで幸村が絡んでいるのを集めてみました。
一言二言私のコメントを入れています。

 天正10年(1582)の武田家滅亡後、真田昌幸が上野国の岩櫃城へ帰る途中の話。以下は小林計一郎編の『真田幸村のすべて』の真田幸村の戦略からの引用です。

『大笹村の入口に雁ヶ沢という谷がある。両岸は断崖でそこへ橋を渡してある。橋の上から下を見下ろすと、目がくらみ、足がすくむ程である。信之・幸村はその橋の上にたたずみ、「この橋から飛び下りる者があるか」とたわむれに部下に尋ねた。赤沢嘉兵衛という者が進み出て「私が飛び下りましょう」という。「雁が下りてさえ、上がることができぬというので、雁ヶ沢というのだぞ。人間業でできるものか」と信之がからかうと、赤沢は「お先に御免」と叫んで、谷底へ身をおどらせた。信之兄弟はじめみなおどろいたが、どうしようもない。
 昌幸がこの騒ぎをきいて駆けつけて「せっかくの赤沢を無駄に死なせるとは何事だ。言語道断」とくりかえし兄弟を叱りつけた。やがてその場を出発しようとすると、嘉兵衛がどこからか、けろけろした顔であらわれた。「これくらいな所を飛び下りたとて死ぬような私ではない」と笑っている。昌幸は言った。「稀に死なぬこともあろう。しかし、このような無茶な者はオレの用には立たぬ。無益に命を捨てようとしたのは不所存の至りだ」ときびしく叱り、勘気を申しつけた。この嘉兵衛はのちに上田篭城神川合戦の時、敵二人を討ち捕り、勘気を解かれたという。』
 若い息子たちに昌幸が叱っているシーンが想像されておもしろい。また、真田家の家臣のあり方や昌幸の家臣に対する考え方などもうかがえて興味深いです。

 上杉家の人質であった幸村が秀吉の人質になったとき、上杉景勝が秀吉に「大きに怒りて、かの源次郎幸村をきっと返し給わらん」とつめよったらしい。秀吉は聞き入れなかったが(『藩翰譜』)。景勝はよっぽど幸村を気に入っていたのか真田を繋ぎとめるのが必死だったのかはわからないが、無口だったとされる景勝が秀吉に詰め寄ったシーンを想像するとおもしろい。

 犬伏の父子別れの話。以下は小林計一郎著の『真田一族』よりの引用です。

昌幸父子は宿営していた民家の近くの離れで人払いをして何か相談していたが、なかなか出てこない。そこで部将の河原綱家が心配して様子を見に行くと、昌幸は「だれも来るなと命じておいたのに、何しに来たのだ」とどなって、はいていた下駄を投げつけた。そこで顔にあたって綱家はまえばが欠けてしまい、その後一生歯抜けのままだったという。』
 松代藩の重臣河原家の家記に書いてあるそうです。昌幸の従兄弟の説もある河原綱家は運が悪かったのでしょうか。

 犬伏での話し合いで昌幸幸村が石田方に信幸が家康方につくことになり、昌幸らが急いで上田城に帰る途中、信幸の沼田城へ立ち寄るのですが信幸夫人の小松殿に入城拒否をくらう。そこで昌幸たちは近くの正覚寺で休んだ。以下、小林計一郎著の『真田一族』よりの引用です。

『ここへ石庵(坂巻夕庵。医者)という反俗がきて、「伊豆守(信之)様はどうされましたか」と聞くと、左衛門佐が「伊豆殿は浮木に乗って風を待っておられる」と答えたので、石庵は怒って帰ってしまった。伊豆守殿の行方がわからぬので、沼田は大騒動である。しばらく休息して昌幸は出発した。左衛門佐は腹立ちまぎれに沼田の町に火をかけて去ろうとしたが、昌幸は「ばかなことをするな。放火も時によりけりだ」と左衛門佐を制した。』
 幸村の乱暴な発言をしているのがめずらしい。

 大坂城へ入城前の話。大峰山中に住む伝心月叟と名乗る山伏が大野修理治長を訪ねてきました。番所で待っていると詰めの武士たちが互いの刀と脇差の鑑定を行っていました。ふと誰かが山伏の刀と脇差に目が行き、からかうような感じで「鑑てやるから」と言ってくるので山伏は渡しました。すると、それが刀は「正宗」脇差は「貞宗」だと判明しました。大名クラスの者しか持ち得ない刀なのでまわりの武士たちは動揺もしたし、どうせ偽物だと思ったらしい。しかしそのときに治長があらわれてこの山伏が眞田左衛門佐幸村であることがわかりました。「少しは目が肥えたかな」と幸村は言ったそうです。

 大坂の陣のはじまる前に真田信繁が大坂城に入城したことが家康の耳に入りました。家康は「親か子か」と質したが、身体が震えていたのか手をかけた戸がガタガタと鳴っています。「親は病死し、子の左衛門佐でござる由」と言上すると安堵したという話が『迎応貴録』にあります。これなんかは明らかに後の時代の作でしょう。徳川としては2度真田に破れてはいますが、2回とも家康は直接指揮をしていません。震えたとしたら秀忠あたりでしょうか。

 おそらく真田丸の戦いの後の話(12月14日以降か)。幸村調略を家康から命じられた本多正純。かれは幸村の叔父の真田信尹を使者に任命し、幸村のもとへ向かわせた。寝返りの条件に「十万石下さるべく候旨」という提示をし応じるなら正純の誓詞を入れると申し出ました。しかし幸村は「牢人して高野に落ちぶれていたところを秀頼様より召し出されて、ひとつの曲輪を預かる身となったのは有り難いことである。だから、出仕せよといわれても難しい。もし和談のうえに召し出されるなら、たとえ一〇〇〇石でもご奉公したい」(『慶長見聞書』)といって答えました。和議が整えば千石ででも奉公したいと言っています。謙虚な態度です。さらに2回目に信尹がやってきて「上野方(正純)より信濃一国下さるべく候間、御味方に参り候へと申し越し候へば、真田腹を立て候て、隠岐(信尹)に対談申さず候」(同書)と怒って会わずに追い返しようです。信濃一国という破格の条件を出されましたが、これには腹を立てたようです。馬鹿にするなということか。実際にあったかどうかはわかりませんが家康方の幸村の評価が高かったこと、幸村の潔さがよく伝わっています。

 大坂冬の陣が和睦というかたちで終わった後の話。旧知の原貞胤(松平忠直御使番)が幸村大助父子を訪ねてきた。大助が曲舞を見せてもてなした後、幸村が秘蔵の白河原毛の駿馬を引き出し5,6度乗り回してから「もし重ねて合戦あらば、御城は破却せられしならば、必ず平場の合戦なるべし。天王寺表へ乗り出し、東方の大軍に渡り合ひ、此の馬のつゞかん程は戦ひて、討死すべし」と貞胤に語ったらしい(『武林雑話』)。実際にそうなったのですが、幸村は和睦しても再戦が近々あるのを予期していたのでしょう。

 慶長20年5月6日の道明寺戦の殿(しんがり)を引き受けた幸村。これは彼自身が強引に引き受け、しかも自身の強さのみを強調したやりかたで退却したものだから味方の諸将からは評判がよくなかったらしい(『北川覚書』)。「人々聞きて憤り、真田やゝもすれば己が武勇を自慢して諸人を蔑如する事奇怪なれ。この上は巳然の評議を破り、面々存分に任せ相働くべしと云う」とあるそうです。これは幸村への妬みがかなり入ったコメントだと思うが大坂方の武将同士がうまくいっていない証拠でもあります。幸村自身は決してそんな気持ちで殿を請け負ったとは思えません。古より殿ほど難しいものはないです。殿を見事にやり遂げる武将は高い評価を得たものだが小言をいう武将もいたのでしょう。それほど見事な撤退ぶりだったのでしょう。諸将をなだめた武将もいます。明石全登です。「真田が申す所、過分なれ共、武勇を好むは本意也。悪(にく)むべからず」

 大坂の夏の陣で家康が幸村の首実検を終えた後、こころざしをもつ武将たちは幸村にあやかろうとして毛髪を抜き取って持ち帰りました(『滋野世記』)。その残った首はどこに葬られたのでしょうか。
 首実検に立ち会った叔父の信尹幸村の首かどうかわからないと秀忠に答えたそうです。真田丸攻防戦後に幸村と会っているのにわからないということは影武者の首だったのでしょうか?「その時は夜中、殊に左衛門も用心仕り、近所へ近づき申さず、遠く罷り在り候」とも答えています。