真田丸(真田出丸)概要

 慶長19年(1614)、大坂冬の陣の前に真田幸村が大坂城玉造口(平野口?)近くに築いた半月形もしくは三日月形の東西に長い砦(出丸・出城)で偃月城とも呼ばれました。高さ9メートルの土塁の壁に、外周の壕は深さが6〜8メートルもあったと推測されています。壕の前後には、さらに柵が設けられ、矢倉や武者走り(通路)までもありました。真田丸主部(本丸)のほかに西側にも頑丈な柵で囲われた土塁(二の丸)がありました。三の丸まであったとする資料もあるそうです。伊達家の記録では東西二つの郭に分かれ、東の郭には水壕をめぐらしていたそうです。大坂城との連絡通路もあり、6000人も配置されていた模様です。武田家で使われていた馬出(うまだし)に似ていますが規模が違います。鉄砲で応戦できるため、味方はほとんど被害は受けない砦でした。開戦前の軍議ではまったく幸村の意見を取り上げられずにいましたが、ここに自分が采配を振るうことが出来る砦を作ることにより、徳川方に一泡吹かせようとしたのでしょう。大坂城の南側を攻めてきた敵をこの真田丸から攻撃しますと敵の側面を攻撃できるという利点もありました。鶴橋村字小長谷あたりにあったとされています。
明星高校 ←明星高校(大阪市天王寺区餌差町)

 残っている書状にも、「眞田左衛門佐はどう思ったのか、玉造口御門之南、東八丁目御門の東、一段高き畑御座候を、三方ニから堀をほり、塀を一重かけ、堀の向とから堀の中と堀ぎは二さくを三重に附、所々矢倉セいろう(井楼)を上ゲ、堀のうで木の通りニ、はゞ七尺の武者ばしりをいだし、父子の人數六千餘人ニて籠申、是を眞田が出城と申候」と『大坂陣山口休庵咄』に記述されているそうです。『慶長見聞録』にも、「二町半許(ばかり)、敵地へ張出、取手をかこい、成程丈夫に大材木を以普請いたし、から堀をほり、ひしをまき、不及申(もうすにおよばず)、成程手強く持詰め、塀を一間と被破不申(やぶられもうさず)候」とある模様です。さらに、『武徳編年集成』には、「眞田左衛門佐は、おのれが武名を後代に遺そうと、天王寺表に一郭を構えた。その形は初三の新月に似ている。総構の外に出ること四十間、まわりに空堀をめぐらし、東西に長く南北に短い。・・・真田丸と自称して、他の勢を交えず守った」とあるそうです。尚、この山口休庵とは大坂方として戦った人です。
 同年12月4日、押し寄せる徳川軍をさんざんに打ちのめし退却を余儀なくさせた、不落の要塞です。


真田丸跡碑 ←心眼寺

真田丸攻防戦

 大坂城城南に作られたこの真田丸は上町台地の地形をおおいに活用しています。現在でも跡地とされる真田山公園の北西、餌差町の明星高校(注:宰相山などいくつか候補地あります)に行くにもこの公園の南東の鶴橋方面からは急な坂道になっています。ちょっとした丘です。砦のまわりはもともと窪んでいる土地をさらに掘り下げて真田丸の堀とし防備を高めたことでしょうが、この砦は当時の人々にはどのように映ったのでしょうか。もっとも、現在の地形と当時の地形は違っています。篠山や味原池などは今の道路や建物からは想像できません。
 真田丸の南側には篠山(現在の小橋?真田山公園?)と呼ばれる少し盛り上がった地形がありました。ここには以前から大坂方の兵が鉄砲で撃ち下ろし、天王寺口や平野口に集結しつつあった徳川軍を悩ましていました。12月4日未明、この地を攻略するために前田家の重臣本多政重隊(本多正純の弟)は動き出しますが、この行動は大坂方に徳川軍の総攻撃があるのを予見させてしまいました。
 政重の手勢が篠山を攻め上がると敵兵(大坂方)がいない。もぬけの殻状態の篠山を占拠したところ、それまで静まりかえっていた真田丸から真田幸村隊の挑発があったかどうかわかりませんが、少しでも前で持ち場を持ちたいとする前田兵たちは鉄砲玉を防ぐ防具などをうち捨てて次第に真田丸に接近します。それでも真田丸からの攻撃はありません。
 しばらくするうちに真田隊から誘いの射撃が行われ、これに反応してしまった前田勢は真田丸へどっと押し寄せてしまいました。これを待ちに待っていた幸村は敵を引き付け引き付けてから鉄砲や弓で一斉射撃を浴びせかけたので大打撃を与えることができました。前田勢につられて井伊直孝隊や寺沢広高隊らも真田丸や大坂城へ、防具の楯や竹束をうち捨てて攻撃を開始します。さらに城内から上がった烽火(石川康勝?の兵が誤って火薬桶のなかに火縄をおとしたため爆発した)を事前に工作していた城方の寝返りと判断した藤堂高虎隊や松平忠直隊も八丁目口や谷町口に押し寄せるも長宗我部盛親隊らに迎撃されたり側面を真田丸から攻撃されたりと徳川方に大損害がでました。後から後から攻め寄せてくる兵がいるから身動きできず大坂方の格好の標的となりました。さらに、真田丸の東の木戸(虎口)から真田大助と伊木七郎右衛門遠雄が五百ばかりの兵で寺沢・松倉隊へ突撃し潰走させました。
 大坂方の猛射撃に三度も撤収命令をだした家康も大坂方侮りがたし、幸村強しの感を得たことでしょう。早朝6時ごろに始まったとされる戦闘は午後4時ごろに終わったようです。それも大坂方の弾薬が尽きてしまったという問題で。徳川軍の死傷者の数は資料によって違うそうですが、数千〜一万数千人にのぼります。真田や長宗我部の活躍により大坂方の大勝利に終わりました。『孝亮宿禰日次記』には、「去る四日、大坂表で城責めがあった。越前少将の勢四百八十騎、松平筑前の勢三百騎が討ち死した。そのほか雑兵の死者はその数を知らない」とあるそうです。幸村は亡き父にそっと報告したことでしょう、私にも徳川に一泡吹かせることができましたと・・・。
真田幸村像 ←宰相山公園(大阪市天王寺区玉造本町)

 その後、大勝利の立役者、幸村の評価はさらに上がり、徳川方に所属している叔父の真田信尹による幸村の引き抜き工作が本多正純の命で行われましたが、幸村はこれを断っています。
 やがて和議が成立しますと、真田丸は打ち壊され総堀の埋め立ての材料につかわれてしまったそうな。

真田丸をもとめてレポ