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 2002年10月11日、推定眞田丸の実地調査を兼ねて現在の真田山周辺や餌差町を歩いて写真を撮ってまいりました。

下味原 JR、近鉄、大阪市営地下鉄鶴橋駅の北西にある下味原の交差点です。現在は千日前通りと呼ばれています。画像の奥が上本町、上町台地側になります。
坂道 千日前通りを北にあがる道の一つで坂の上には味原小学校があります。
坂道 この坂をあがって西を見ました。下りになっています。
坂道 さらに別の交差点です。
真田山公園 真田山公園の南側の入口の一つです。
坂道 その場所から西側を見ました。坂が下っています。
地図 周辺地図です。大きいほうの緑が真田山公園です。
坂道 この地図あたりから東側を見ました。下っています。この東西の道ではこの辺りが頂点?このあたりの南側(画像の右)はむかし池がありました。
入り口 真田山公園の南側の入口の一つです。
公園内 公園内です。
公園内 石ですね。
野球場 現在は野球場があります。
道 真田山公園南西側、味原幼稚園を左に見ながら歩く道は武者走り(笑)??
案内板 味原町→真田山町と来ましたが次は西の餌差(えさし)町です。上の画像から北に向かいました。右手側には、慶伝寺、大圓寺、真田山幼稚園、西念寺、顕祥寺と続きます。
坂道 ここは東西に走る道です。画像の右(南)側が顕祥寺、この壁は伝長寺、背中側左にが明星高校がある交差点です。このあたりで一番高い土地でしょうか。画面奥(東)は下っています。
道 反対を向いて撮りました。画面右(北)側が明星高校、左(南)側が大阪防水建設社です。
心眼寺坂 で、この交差点を北に見ます。画面左が明星高校です。画面奥が急に下がっています。
心眼寺坂 車が止まっているあたりに心眼寺があります。大坂の陣後、幸村・大助父子を弔うために建てられたお寺です。
心眼寺坂 そしてこの坂を、心眼寺坂といいます。ここで、小学生二人に質問されました(推定4年生)。「この坂は必要ですか?」まぁ、タイムリーな質問です。もちろん「はい、必要です」と答えました。「どーしてですか?」という問にも「昔から坂やったから♪」と小学生レベルの答えをしておきました(笑)。なんでも授業で使うらしいです。他の答えにトレーニングにいいからという答えがありました。小学生たちは「ありがとうございました」というやいなや走って次のターゲットを探していました。
奥は鎌八幡 先ほどの交差点にもどり明星高校を右手に見ながら西へ歩きますと餌差町の交差点にでます。画面中央はレポしなかった例の場所です(中は撮影禁止)。あくまで餌差町の交差点を撮りましたので( ;^^)ヘ..
餌差町 これです。
交差点 餌差町交差点から北を写しました。坂が下っています。ちなみに、この交差点から西に伸びる道も下がっています。右前方は明星高校です。
地図 周辺地図です。画像の真ん中の赤いところがココです。画面右下の緑色が真田山公園、その上の緑が宰相山西公園。中央の三角形の緑が清水谷公園です。この清水谷公園の下(南)のみちが細く東西に伸びていますが、これが大坂城の南側の堀だと私は考えます。そのすぐ北側に大きな道路の長堀通りが東西に走ってい、名前も長堀ですが、これではないような気がします。ちなみにこの地図の右上は空堀町と言います。真田丸と大坂城の間の堀ではないでしょうか。
交差点 餌差町交差点を南に下りました。北から南に向かいますと、左(東)に高津高校(餌差町)をみます。餌差町の次の交差点が味原本町交差点です。
道 この交差点から東を撮りました。この道をまっすぐいくと先の真田山公園の南側入口にでます。

 ▼■←のような形で東西二つに分かれていたと思われる真田丸。明星高校辺りが真田丸の西側で東端が宰相山(三光神社)もしくは陸軍墓地あたりで、南側は真田山公園の北側辺りでは?と考えておりました。
 ところが心眼寺(真田山心眼寺)の由緒書きを読んでからは考え方が変わりました。心眼寺が東端だという記述です。ものの本によれば真田丸は東西は210メートルほどあり、西側と東側(メイン)にわかれていたようです。現在は土地も削られていたり味原池も埋め立てられていたりと400年前の地形とはだいぶ違っているでしょうが、心眼寺から西に210メートル行きますと餌差町を越えて空清町にたどり着き、そこには幸村が戦勝祈願したとされる鎌八幡が含まれる位置に出ます。鎌八幡が真田丸に含まれていたかは不明ですが。真田丸南側は高津高校北側辺りかな。
坂道 ←明星高校南側から見た画像。下がっています。

 宰相山の名前の由来は前田宰相利常から来ているみたいです。前田隊が陣取ったということで。しかし前田隊は冬の陣の開戦前の布陣予想図では現在の鶴橋駅南側に陣取っています。ですので前田隊が陣取った場所ではなく前田隊の陣が見えた場所ということでしょう。他に大坂方の部将、京極備前が真田丸でともに戦い、彼も宰相と呼ばれていたから宰相山という名前が付いたという話もある。
 あと餌差町の南に小橋。このあたりが篠山と呼ばれたところではないでしょうか。

 今回空堀町の写真と明星高校と高津高校のあいだの写真が少なくて坂道の加減が説明しきれてません。次回追加レポします。空清町は土地が低いですよ。ちなみに管理人こと私は明星高校の出身ではありません。

2002年10月23日追加

三光神社 この階段を上がると三光神社です。
道 三光神社の北側を東西に走る通りです。大坂城と真田丸の空堀の跡と思われます。左に曲がると三光神社の北口です。
公園 宰相山西公園です。
公園
道 上の公園を左に見ながら次の曲がり角を左に曲がりますと心眼寺坂にでます。画面は北から南を見ています。右奥が明星高校です。
道 これは明星高校の西側で北から南を見ています。登坂ですね。
明星高校 明星高校です。
右に鎌八幡 明星高校を左手に見ながら坂を登りきると餌差町交差点に出ます。ここはやっぱり高い土地です。画面奥は西側で坂は下っています。右手に見えるのは円珠庵こと鎌八幡です。
道 餌差町の交差点を南へ一つ下ってすぐ左に曲がりました。その辺りです。画面左のネットは高津高校のネットです。画面奥が南です。
道 高津高校を北から見ました。この道より下にあります。
道 高津高校は左手です。画面奥は北です。坂を下ってきて振り返りました。
道 さらに20Mほど南に歩き振り返って坂を撮りました。画面奥は北です。

 明星高校の南側を東西に走る道がこのあたりでは高い土地です。あと、宰相山公園も盛り上がった土地です。ただ、真田丸は東西に分かれていたとか3つに分かれていたとか資料文献によって記述がまちまちです。規模は東西約220メートル南北約140もしくは170メートルという大きさのようです。しかしこれがすべての大きさか真田丸主部だけの大きさなのか、わかりません。まだまだ研究の余地があります。

2003年6月6日撮影

地図 明治33年の大阪市の古地図です。画面右上(北東)が大坂城です。画面右下の水色のところは、今はなき味原池です。その北側に真田丸はあったと考えられております。
地図 味原池周辺(JR鶴橋駅の北西)のアップです。この池のすぐ右上は今の真田山公園に該当するものと思われます。古地図での地名は「山小橋」。読んで字のごとく、小橋村に少しこんもりとした土地(山)があったので、こう呼ばれた。だとすれば、ここが「篠山」でしょうか。画面右上は今のJR大坂環状線玉造駅です。
地図 真田幸村の銅像がある宰相山公園(古地図では宰相山町)。この西には陸軍墓地が今もありますが、ここは真田山墓地とも言われております。その墓地の西には心眼寺坂と呼ばれる坂があり、その坂に南北に並ぶように今もお寺がいくつかありますが古地図にもあります。そのお寺の一つに心眼寺というお寺があります。ここは真田幸村、大助父子を弔うために江戸時代初期に建てられ、由緒書きにも真田丸の東の端だったと記載されております。とすると、餌差町の今の明星高校あたりが真田丸跡地の有力候補ではないでしょうか、と思います(画面赤線のところあたり)。なお、この赤線の上(北側)が大坂城の南側の外堀(推定)です。___/ ̄ ̄ ̄このようなラインで斜めのところに真田丸が設けられたと考えられております(武田軍が用いていた馬出の大規模版)。現在も空堀通りという名称が残っております。

2011年4月18日撮影(画像をクリックで拡大します)

地図 弘化2年(1845)の大阪市内の古地図です。画面上(北)が大坂城です。画面右の赤色は玉造稲荷神社。画面中央の下部にある、「サナダ山イナリ」とあるのは、今の三光神社の場所と思います。「サイショウ山」は今の陸軍墓地のあたりでしょう。「心カンシ」とあるのは、心眼寺でしょう。「真田山」とあるのは、今の大阪明星学園か。 この真田山と書かれているところが、真田丸の中心地点か。