真田幸村・・・戦国武将の名前を10人あげなさい、と言われれば彼の名前はだいたい出てくることでしょう。信長、秀吉、家康のような大物であったわけでもなく、彼の名前は有名であります。彼の活躍は幸村伝で語るにしても彼の名前の謎を検証してみようと思います。
真田幸村 大阪城内

 最近の戦国時代ゲームの普及によって幸村という名前が本名でないというのは戦国好きの若い世代では常識化してきましたが、もっと以前の世代の人たちはそんなことは知らないと思われます。幸村幸村であります。もっともっと以前の世代の人たちは真田十勇士も10名全員スラスラと名前を言える人が多いと聞きます。
 本名「源次郎信繁」、幼名「(御)弁丸」。水戸黄門で有名な水戸(徳川)光圀の言行を書き記した『西山遺事』には「真田左衛門佐信仍」とし幸村と云うはあやまりなり」とあるそうです。また『武林雑話』には「・・・信賀父子も一両年中に討死とこそ・・・」とあるそうです。ただ信の次の字が読みづらく信賀は信仍とすることもある模様です。
 彼らが生きていた時代は、普段は通称で呼んでいたようです。「源次郎」とか「源三郎」というように。また官位があればそれを使うそうです。「左衛門佐」とか「伊豆守」のように。いわゆる本名に該当する諱(いみな)はめったに使わない。諱は”忌み名”というくらいなもので、その発音をすれば災いが起こるとされていたそうです。正式な文書には本名を書き記すがなんと発音するかはわからない。
 少し話がそれてきたのでここで本題の幸村に戻します。以前こういうのを読んだか聞いたことがあります。「幸村」の名前は講談師「幸村(こうむら)さん」の作で、幸村が大活躍する物語のおもしろさが世間に受け、架空の名前の「真田幸村」は、いつしか本当の名前になった、と。「幸村(こうむら)」とは珍しい名字ではあるが、パソコンで「こうむら」と入力して変換してみると「幸村」とでます。そもそも講談師はたくさんいて、その語り方や内容の面白さによってお客の人数が違っていました。講談師「こうむら」さんの真田モノが人気を得て、「幸村(こうむら)版真田」が途中から「真田幸村」というネーミングに発展したのかもしれません。しかし、この「こうむら」さんがいつ活躍したかがわからない、というか私は忘れてしまいました。
 寛文12年(1672)に万年頼方と二階堂行憲によって書かれた『難波戦記』には「幸村」の名前が出ているので、彼ら作者二人が生みの親でしょうか。信繁と書くとお江戸からのお咎めがあると思った彼らは名前を創作したのでしょうか。真田家に続く「幸」の字、それと幸村の姉の「村松殿」の「村」を合わせたのか。「村」の字は徳川家にとっては魔物の刀「村正」の「村」だろうか。
 以下は幸村伝でも書いてあるが、大坂夏の陣直前の3月19日に書かれた姉婿小山田茂誠とその子之知への手紙の一節に、私はこの世にはいないと思っていてくださいね、と伝えています。縁を切ったとまではいきませんが、そのような決意からもこの手紙を出した後、別の名前に変えていたのかもしれません。もしそうなら、その名前が「幸村」で、それが死ぬまでの約2ヶ月という短い期間にしか用いなかったこと、改名の事実は大坂方のごくわずかの者や身近にいた者(配下の兵士等)しか知らなかったことが原因で自筆の手紙や公家の日記、東軍が書き残した戦記などに幸村の名前が出てこないのかもしれません。一般に文献に出ていないから幸村という名前は創作だとされています。しかし、それが大坂方生き残りの兵士達が改名の事実を憶えていて、後世に伝わっていたのかもしれません。大坂の陣も穏やかに話せるようになった後の時代にはじめて『難波戦記』というかたちで現れたのかもしれない。享保16年(1731)にできた『真武内伝』には途中まで左衛門佐と書き大坂城に入城後は左衛門佐幸村というように書かれてあるそうです。
 でも真相は不明です。あくまで以上は自説ということでご勘弁下さい。