豊臣秀吉の死後、中央での権力が日ごとに増してきた徳川家康は、会津に帰っていた上杉景勝にその領内での城の改修や道路の整備、浪人の召抱えなどの弁明をさせようと上洛を促していました。それを無視するかのような態度をとっていた景勝に謀反の疑いありとし、慶長5年(1600)家康は諸大名に軍を動員し上杉征伐に向かっていました。その道中の7月21日に真田昌幸は石田方の挙兵を知り彼らからの勧誘状を手にした。昌幸はさっそく信幸・信繁(幸村)を呼んで密談し昌幸幸村は石田方に、信幸はそのまま徳川方につき従うことになりました(犬伏の別れ)。
 7月23日に昌幸幸村父子は犬伏を出発。途中信幸の沼田城を通って本拠地の上田城へ帰りました。上方での石田三成の挙兵を耳にした家康は上杉のおさえに次男結城秀康を置き、上方へ向かう軍を家康と秀忠の二つの軍に分けました。そのうちの秀忠軍約3万7〜8000は中山道を通るルートになりました。ということは昌幸幸村のこもる(約2500)上田城の近辺を通過することになりますが、15年前の汚名を晴らすためか小勢力なので簡単に打ち破れると思ったのか目障りだったのか、上田城を攻撃しにかかりました。
 9月2日小諸に着陣した秀忠軍は翌3日に信幸信幸の義兄本多忠政を使者に選び上田国分寺で昌幸と対面し処罰しないことを条件に降伏を勧めました。ここで昌幸は降伏の意を表します。上田城を綺麗に整理して明渡したいということで信幸らの使者を帰しますが、いっこうに開城しない。秀忠は再度使者をたてますが、昌幸は上田城に立てこもる準備が出来たので一戦まじえましょうぞといった返事をしました。それに激怒した秀忠は5日に上田城を攻め始めました。
 上田城東方の染屋台地に陣をしいた秀忠はまず信幸に砥石城を攻めさせました。砥石城には幸村がこもっていたがすぐに上田城に撤退し信幸が砥石城に入城しました。兄と戦いたくなかったのか兄に手柄をさせたかったのか兄の実力を恐れたのかわかりませんが、兵達にも肉親知人がいることをはばかって一戦交えるを潔しとしなかったのでしょう。6日には徳川軍は苅田戦法に出ました。これはそれまで大事に作ってきた米などの作物を攻め方が獲ることによって城に立てこもった兵士達(農民も混じっている)を怒らせ、農作物を盗んでいる兵士を囮にし城内から打って出た兵を待ち伏せて討ち取り、さらに門がひらいた城になだれこもうという作戦であります。それを見抜いていたであろう昌幸は、あえて徳川方の作戦にのりました。それは、農作物をとっている徳川の兵士に城内から討ってで案の定徳川の伏兵(主力部隊)が出てきたら徐々に退きつつ城下まで誘い込み、逆に伏せていた味方の伏兵を出しさらに城内から鉄砲で射撃し城門からも一斉に討ってでました。第一次上田城の戦いと同じような展開になりました。幸村もひとつの部隊として活躍しています。
 9日に秀忠は上田城攻めを中止し小諸へ引き返し、濃尾平野に急いで向かうがここで費やした時間のロスは大きく、家康と三成の関ヶ原の戦いには間に合わず、家康からこっぴどく叱られました。